書類を整理している手を止め、
は密やかに息をつく。
主が何も言わず黙々と作業を進めている中、自分一人が疲れているとは言えない。
ぱちん、パンチで穴を開けてファイルにまとめる。
放課後、明日は連休という日の前日。
普通の学生なら喜び勇んで家に帰り、ごろごろと日頃の疲れを癒すべく休憩しているだろう。
だが、そんな時間は並中の風紀委員には許されない。
休日出勤は当たり前で、下手をすれば授業中も書類雑務に追われている。
のは、委員長やだけだったりする。
他の風紀委員は、委員長の招集があれば集まれど、普段は副委員長である草壁の監視下だから、雲雀の関与する所ではない。
だから普通に休みはあるし、きちんとローテーションが組まれているのだと聞いた事がある。
それに比べ、達の仕事のいかに多い事。
あたかも勉学よりも部活にいそしむ学生か、もしくはサービス残業に向き合うサラリーマンか。
もっとも、正確な事を言うならは風紀委員でも何でもないのだけれど。
割に合わない、と思ってしまうのは仕方がないと思う。
「」
不意に名を呼ばれる。
もう一度つきそうになっていたため息をひっこめて返事をすると、奇妙な声が出た。
雲雀を見ると呆れた目をしながらを見ている。
何考えてたの。
柳眉をひそめる彼に、苦笑。
彼は、美人だとは思う。
その言い方を男に対して使うのは違うかもしれない。
けれど、ふっと伏せられた顔や切れ長の目には、どことなく色香を感じて。
綺麗な人、というよりは、矢張り"美人"なのだ。
ただし、黙っていれば何とやら。
口を開けば身勝手な事を言い出すし、すぐにトンファーを持ち出すから危険きわまりないけれど。
その手の感触も、力も、自分とは違う男の物だという事を、は知っている。
「…何?」
思考が別の場所へ飛んでいたからだろうか。
いつの間にか目の前にやってきた雲雀の顔が、真正面からアップで映る。
思わず顔を赤らめて身を引くと、不機嫌そうな顔。
心臓に悪い。
さっきから何なんだい。
そのまま手を伸ばし、容赦なくの頬を引っ張る。
それはもう、思い切り。
いひゃいえす、ひょーやさん。
痛さで生理的な涙を流すと、彼は面白そうににやり、笑う。
質が悪い。
そのままだと離してくれそうもないので、強硬手段。
手をはねのけると、再びむっとした顔。
話を聞いていなかったも悪いけれど、離せと言って離さなかった彼にそんな顔をされるいわれはない。
と、思う。
それで、何なの。
熱を持った頬をなでる。
恐らく赤くなっているのだろう。
本当に容赦なかった。
恨みがましく見上げれば、楽しそうに笑っている彼はすぅとの頬をなでる。
それは残っていた涙の筋をぬぐってくれた、だけだと。
分かっていても。
綺麗な顔で間近に笑まれ、あまつさえやわらかく触れられている状況は、更に彼女の顔を赤らめさせるしかなくて。
「だから、一体何なのよ!」
ぱんと腕を振り払おうとして、先に手をのけられて失敗する。
彼女が悔しそうな顔をすると、彼はおかしそうに笑みを深め、もう片方の手に持っていた紙束を差し出す。
職員室まで、よろしくね。
そうして、あっさりと体が離れる。
小さく、長く息をつき、は立ち上がる。
与えられた書類は残り半分ほど残っているが、どうにかなるだろう。
とりあえず今は、この熱い頬を冷ます方が先決だ。
行ってきます。
歩いて、心持ち小走りに、彼女は応接室を出て行く。
閉まる、扉をじっと眺めながら、雲雀は少しだけ笑う。
からかい甲斐があって面白い。
思った通りの反応を返してくれるが、可愛らしくて愛おしい。
さて、彼女はどれ程の時間をかけて帰ってくるのか。
手にした鉛筆をくるり、回して口元をつり上げる。
無事職員室へ書類を届け終わったは、まだ火照っている頬を冷まそうと屋上に来ている。
寒い中、グランドではまだ部活にいそしむ野球部員の姿。
その中に山本の姿を見つけた。
一心にボールを投げ込んでいる彼は、当たり前ながらもの視線に気付く様子もない。
その他の球児達も、力の限り走って一つの白球をめがけて走る。
青春だなぁと年寄り臭い事を心の隅に引っかけ、ふっと空を仰ぐ。
秋の日はつるべ落としとはよく言ったものだ。
秋分の日を過ぎると、急速に日が落ちるのが早くなった。
夏の今ならまだ明るいだろうという時分なのに、もう夕焼けが足下の影を長く引き延ばす。
フェンスにもたれかかり、振り返っては目を見開く。
山の端を見やると、太陽が隠れようとしている空が紅く、血よりも鮮明な色を呈している。
その美しい色に、一瞬で惹かれた。
山の陰が黒く映し出され、まるで影絵のようにくっきりと浮かび上がるコントラスト。
紅い色を辿ると、若干白い色を置いたですぐに蒼穹と交じるグラデーション。
ぽっかりと浮かんだ雲もその色に染まって。
何よりも、その紅が。
どんな宝石よりも美しく、その色が怪しくて。
血色と呼ぶには青みがかって、紅と呼ぶには毒々しく。
どんな人工色でも敵わない、クリムゾン。
どれ程の間見とれていたのだろう。
がちゃり、開いた扉の音にさえ気付かなかった。
「」
名を呼ばれ、初めて彼の存在に気付く。
何やってるの。
近付いてくる彼は不機嫌そうだ。
あまりに遅いから心配して探しに来てみれば、彼女は心をどこかにやって空を見つめていて。
何かあったのか、なんて、心配して損をした気分。
ごめんね。
眉を下げて、申し訳なさそうな表情で謝って。
まだ、赤いの頬。
でもそれは先程とは違い、熱を持っているわけではなく。
雲雀が触れると、包まれる温かさ。
自分と彼の温度差でどれ程自分が冷えていたかを思い知る。
あったかいね。
君が馬鹿みたいにずっと外にいたからだよ。
声もなく差し出されたその手を、戸惑いながら握ってみる。
自分以外の穏やかな体温が、冷えた自分の手と緩やかに同調していく。
その温かさに心も温かくなって、こっそりと笑みをこぼす。
冷たい冬空に息を吐き出せば、ほわり、浮いた白い吐息。
「それよりもさ、恭弥、空綺麗だよ」
もう一度空へ視線を戻す。
先程よりも紅さを増した空は、いっそう怪しさも増す。
その指の先を眺め、雲雀もあぁと息をつく。
そうだね。
無感動にも聞こえるかもしれない。
けれど、彼はいつもはっきりと物を言うから。
その言葉が本心からのものだと分かっている。
夏の夕空は、もっと朱い。
黄色の交じった、オレンジに近い優しい色。
そしてその色はもっと長く伸びて、空を半分覆う。
季節による色の差は一体何が原因なのだろう。
この色が、何らかの形で再現できたらどれほど美しいだろう。
でもきっと、この色は人工物に成り下がった瞬間、その怪しさを失うのだろう。
くしゅん、一つくしゃみをする。
流石にこの季節、シャツ一枚だと寒い。
応接室は温かいから、ついブレザーを置いてきてしまった。
隣から聞こえるため息。
おもむろに離された掌が温もりを失い、どことなくむなしさを感じていると。
「馬鹿でも風邪は引くんだって、知ってる?」
ばさり、体に被さった温もり。
それはが馬鹿だと言っているようで。
ひどい。
口を尖らせながら、かけられた学ランに腕を通す。
先程まで彼が着ていた温かさの残る黒いそれ。
よりも大きなその服は、冷えた上半身を掌まで温めてくれる。
「帰るよ」
まだ書類は残ってるんだからね。
そのまま、己の学ランの袖から出たの指先を握って引く。
おとなしく彼に従って屋上を後にする。
ドアの閉まる一瞬前、振り返ると夕暮れは暗さを帯び、先程の紅さはもうなかった。
ねぇ。
手を引くその背に呼び掛ける。
何。
淡々と返す雲雀。
明日も書類?
残ってたらね。
じゃあ、終わってたら?
突如そんな事を言い出したからか、雲雀は怪訝そうに振り返る。
あの紅い色にそそのかされたのか。
もちろん、雲雀と一緒に入れるのは嬉しいけれど。
何か、別の事をしたくなって。
せっかくの休日。
それも連休だ。
一日くらい休んだところで、きっと罰は当たらない。
それに雲雀とだったら、溜まった書類も残り2日もあればさばけるだろう。
ねぇ恭弥。
そっとその名を紡ぐ。
明日は何をしようか
(そんな事言う前にさっさと書類、終わらせなよ)(大丈夫、今日中に終わらせるから)